合掌造り集落の秘密:ユネスコが両方とも評価する「城端」と「五箇山」の関係を知っていますか?
先日、城端曳山祭を取り上げましたが、今日はその際に訪問した五箇山について投稿します。
城端も五箇山もユネスコに高く評価されている
五箇山の平家落人伝説
元々、五箇山には平家の落人が住み着いたと伝えられています。1183年に富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦いました。この時、木曾義仲は日本史の教科書にも載る有名な「火牛の戦法」で平家に大勝しました。この勝利により、源氏が平氏に対して大局的に優勢になったと言われています。その平家の残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされています。なお、「火牛の戦法」とは角に松明をつけた牛を敵陣に突入させて、混乱させる戦術です。
その後、南北朝時代(1337-1392年)に後南朝の遺臣だった武士たちが、五箇山に住みはじめ、養蚕・和紙生産が始まったと伝わります。合掌造りの家屋は屋根を急こう配にするために、3階建てが多く、その3階で養蚕業や和紙生産を行っていました。合掌造りの家屋は見た目の素朴さとは裏腹に、家内工業を行う機能的なスペースだったのです。
火薬の原料「塩硝」の生産
五箇山では、自然の草と蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、多くの塩硝を製造していました。この塩硝は火薬の原料であり、加賀藩の戦力強化に大きく寄与しました。五箇山で飼育された蚕が絹製品販売による加賀藩の財力強化と戦力強化に結びついていたことは大変興味深い関係ではないでしょうか。
城端曳山祭は毎年5月に開催されます。城端曳山祭に行く際に、五箇山にも立ち寄り、その両者の関係を思い浮かべれば、大変興味深い旅行になるのではないでしょうか。
「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり」で城端曳山祭を体験しよう
今年、城端曳山祭に行けなかった方でも、5月18日と19日に開催される「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり2024」で庵唄(いおりうた)を楽しむことができます。このイベントでは、城端から来た囃子方と唄方が、神楽坂の裏路地を練り歩きながら、曳山祭の雰囲気をそのままに、庵唄を披露します。この機会に、越中の小京都とも称される城端の伝統文化に触れてみてください。神楽坂でユネスコ無形文化遺産の城端曳山祭を体験しましょう。
スケジュール
神楽坂へのアクセス
◆東京メトロ 南北線 飯田橋駅
◆東京メトロ 有楽町線 飯田橋駅
◆都営地下鉄 大江戸線 牛込神楽坂駅、若しくは飯田橋駅
◆JR総武線 飯田橋駅