謎多き浮世絵師、東洲斎写楽と神楽坂の関係
写楽とは
東洲斎写楽は、浮世絵の世界において一風変わった存在です。1794年5月から1795年1月までの短い期間に、役者絵を中心に145点以上の作品を残し、その後忽然と姿を消しました。この短期間に多くの作品を残したことや、その突然の消失が多くの謎を残しています。
写楽の絵の特徴
写楽の作品は、その独特の表現力に特徴があります。特に役者の個性を大胆に、そしてリアルに捉えた肖像画は、当時としては異例のリアリズムを持っていました。これが反響を呼び、彼の作品は瞬く間に人気を博しますが、一方で役者のリアルすぎる表現が問題視されることもありました。最も有名な作品に「三世大谷鬼次の江戸兵衛」があり、この作品では役者の表情や身振りが生き生きと描かれています。
写楽の正体
長年にわたり多くの説が唱えられてきましたが、最近では写楽が阿波徳島藩の能役者であった斎藤十郎兵衛であるとする説が有力です。この説によると、斎藤十郎兵衛は阿波徳島藩主蜂須賀家に仕える役者であり、一時的に画業に身を投じたとされています。彼の実在が様々な文献から確認されており、彼が画業を行っていた事実が八丁堀地蔵橋に住んでいた記録からも裏付けられています。
現在もつながる写楽・阿波藩と神楽坂の関係
阿波徳島藩と神楽坂の関係は、江戸時代初期にさかのぼります。飯田橋駅近くにある神楽坂の起点の「牛込御門(牛込見附)」の工事を1636年、三代将軍徳川家光より仰せつかったのが阿波徳島藩の蜂須賀家でした。「神楽坂まつり 阿波おどり大会」は、このご縁で1972年に始まった伝統行事で、毎年多くの観光客や地元民が参加します。2024年は7月26日(金)・27日(土)には神楽坂で阿波おどり大会が予定されています。
また、神楽坂には東京で2番目に古い能楽堂、日本最古の浮世絵工房もあります。当社に御連絡いただければ、矢来能楽堂での能体験、高橋工房での浮世絵制作体験もできます。
神楽坂の花街(芸者街)は1788年に行元寺(ぎょうがんじ)境内に始まると言われています。写楽の活躍時期(1794年5月から1795年1月)には神楽坂芸者衆の誕生直後ということになります。
「東洲斎写楽」に思いをはせながら、謎の浮世絵師と神楽坂とのご縁を楽しんでみてはいかがでしょうか。写楽の作品と神楽坂を通じて、江戸時代の芸術や文化、人々の生活が垣間見えるのです。